第一章

海  うみ)のむこうでも「おりがみ」が一人ひとりあるきをはじめた昨今さっこんであるが、さて、「みのおや」と自認じにんしている日本にほんでのがみ評判ひょうばんたしてどうなのか。
世界せかいかずある国々くにぐになかでも、わがくにはずいぶんゆたかになり、生活せいかつにゆとりがてきたようで、趣味しゅみあそびをもとめるひとえてきた。なかはカルチャーセンターがおおはやり。しかし、「おりがみ」の評判ひょうばんいまひとつのようだ。


「・・・希望者きぼうしゃすくなくて・・・」

りあげられてもそれほど人気にんきのある部門ぶもんではないようです。子供こどもっぽい、幼稚ようちくさいと敬遠けいえんされます。」とおもいのほかひやややかにあしらわれている。いまさらひとならうものではない。おさないころにもどって、なつかしがっていのってみたところできつくところは、他愛たあいもないおあそびにぎず、美的感性びてきかんせいも、食欲しょくよく満足まんぞくさせない。そのくせ、ちかごろの「創作そうさくがみ」とやらにをそめてみると、たとえ子供こどもむきのほんながらでも、解釈かいしゃく案外あんがいむつかしく、なかなか
りきれない。内心小馬鹿ないしんこばかにしていただけに、よけいに腹立はらたたしい、というのががみについての平均的へいきんてき意見いけんである。


ところが、「ガイコク」ではちょっと様子ようすことなっているのだ。伝統でんとうのないところから出発しゅっぱつした、オリガミアンばれるガイジンさんはおどろくほど熱心ねっしんで、日常にちじょう彼等かれらてきたわけではないが、おそらくいろえ、徹底的てっていてき研究けんきゅうはじめていて、そのおどろくほどの洞察力どうさつりょく創造力そうぞうりょくで、そこここにあたらしいオリガミのそだちつつあるようにおもえる。
まごおしえてやるので、やさしいかたおしえてください。むつしいのは性分しょうぶんわないんですよ。かたのこらない簡単かんたんなのがいい。」
われわれのくに身近みぢか理解者りかいしゃが、そんなのんきなことをってるひまに、ガイジンさんたちが、「オリガミ」という日本語にほんごけいれ、毎日まいにちのように自由気じゆうきままな作品さくひんみだしながら、
日本ニッポン文化ぶんか、オリガミ!すばらしい!」
絶賛ぜっさんし、熱中ねっちゅうしているのだ。

かなりまえから、われわれ日本人にほんじんは、なにかにつけてまもることにをとられていませんか。それが日本人にほんじん美徳びとくだと、まじめにしんじこんでいるひとがいるが、とんでもない。ほんとうは、すばらしく創造的そうぞうてきで、前向まえむきな民族みんぞくなのだ。すくなくとも過去かこはそうだった。そもそも「おりがみ」がまれそだまれたこと自体じたいがそれを証明しょうめいしているではないか。ただ、島国しまぐにだから
というのか、ある程度ていど大きくなるとそれをまもろうとする。自分じぶん垣根かきねつくって、そこをえまい、えさせまいとする、仲間意識なかまいしきというか、「しばられ上手じょうず」とわたしんでいるが・・・なにも「おりがみ」にかぎったことではない。ちいさな四角しかくかみいきをかたくなにまもりつづけるひとたちがいる。

えらそうなことをって、さて、それなら、なにが「おりがみ」を、こえることになるのか、それはまだわたしにも、ほんとうのと
ころ、よくかってはいないが・・・

2002年 川村 晟 著