第十章

紙かみ)をふたりにすれば、そこに一筋ひとすじせんができるが、それが平面へいめんからがっているのが山線やません、へこんでいれば谷線たにせんと呼ぶ。「やま」と「たに」はおもてうら一体いったいだから、表側おもてがわ山線やませんならうらをひっくりかえせばそこは谷線たにせんになっている。こんなことはりまえのことだが、はじめてのひと案外あんがいかりにくく、「かみをまず山折やまおりしてください。」とっても、かなりのひとがまごついてしまう

 どうしてかというと、とき動作どうさは、まずテーブルのうえかみひろげて、手前てまえはしちあげ、もう一方いっぽうはしかさねてから、になったところをゆびでしごいてすじをつける。だから、それをもとどおりにひろげれば、そこには「谷線たにせん」があらわれる。「山線やません」が入用いりよう場合ばあいかみをひっくりかえさなければならないが、そこでまだ、やまたにからぬままだと、とまどってしまうのだ。はじめの一歩いっぽ間違まちがえると次々つぎつぎ間違まちがえをりかえすことになるので、そんな場合ばあいは、いったんかみ裏返うらがえしにしてから、「谷折たにおり」すれば、もともどすと「山折やまおり」となる道理どおりである。

 簡単かんたんがみでもながらるのは厄介やっかいだと、よくおっしゃるが、「山線やません」「谷線たにせん」で出鼻でばなをくじかれ、そうなればもう自信じしんうしなって、「中割なかわり」とか「かぶせり」とか「ひらく」とか「つぶす」とか、おもわせぶりな記号きごう次々つぎつぎびだしてくると、もう、ついていけない心境しんきょうになる。でもこのあたりはがわ努力どりょくで、すこしがんばってそのになっていただければ、やがて解決かいけつする。たしかになじんでしまえばやさしく親切しんせつで、あらゆるところで作品さくひん記録きろく再現さいげん、あるいはがみ普及ふきゅう役立やくだってきたとおもう。それでも、は「平面図へいめんず」とはわないまでも、あくまで「平面へいめんかれた」だから、紙作品がみさくひん平面的へいめんてきなものばかりとはかぎらない。近年きんねん作品さくひんがますます立体的りったいてきとなり、複雑ふくざつになるにしたがって、わたしにはやはり、にも限界げんかいがあるようにおもえてきた。もはやどんな記号きごう使つかいこなしても、いまのようなではとうてい記録きろくできない作品さくひん数多かずおおてきたのである。

 がみ楽譜がくふだとの見方みかたもあるが、それはいまではおもいすごしといわざるをえない。音楽おんがく時間じかんながれとおと高低こうてい出来できており、その意味いみでは記号化きごうかしやすい。たとえば、彫刻ちょうこく記号化きごうかして「ぬりえ」のように、わくごとにいろかたち指定していするなどして作品さくひん再現さいげんしようとしても無理むりなように、がみちかごろでの再現さいげんがだんだんむずしくなってきているにもえがけない作品さくひんは、がみ本質ほんしつにもとる、そんな作品さくひんみとめめられない、とこんなご意見いけん本末転倒ほんまつてんとうで、ひとにまねできないではないというにひとしい、とわたしおもう。
 では、わる記号きごうなり、記録きろく方法ほうほうがあるかといわれると、たとえばビデオはパソコンは・・・そのへんのことはまだわたしにも予測よそくしかねる。

2007年 川村 晟 著