十一
もう何年も前に亡くなった方だが、竹川青良という、生前に60年以上も折り紙をやってこられた、有名な折り紙作家がおられた。常々からの先生のお考えは、だれにでも、幼稚園の子供でも簡単に折れるのが、ほんとうの折り紙で、手かずの多いのや、ひねくり過ぎたのは折り紙と呼びたくない、というのである。したがってその作品はどれもこれも簡単明瞭、子供っぽくてかわいくて楽しい。
亡くなる数年前、SLが折り紙展で入選し、その折り方の講習会に私が東京の折紙協会本部まで出むいた帰り道、偶然、竹川先生と新幹線をごいっしょした。協会の講習会と理事会がたまたま同じ日で、先生は理事をなさっていたのだ。
「川村さん、・・・」と、それほどなじみのない私に、親しくこんな話をしてくださった。
「私は子供のころから折り紙を始めて、戦時中も兵隊にとられてからも折り紙をやっていました。思いついたら折らずにいられなかったので、行軍しながら折ったものですよ。背嚢を背負って歩きながら折るのですから、むつかしいのが折れるはずがない。戦友たちも皆死ぬか生きるかのせとぎわを、汗まみれ泥まみれで、軍靴を引きずって歩いているんです。だれかがにこっと笑ってくれたら、それがなによりの励みになりました。・・・易しいからいいとは言いませんが、易しくないといけません。私は自分のやり方が正しいと信じています。折り紙に人生を賭けてきましたからね。だから私は、折り紙は易しいことがいいことだと言いつづけて死ぬつもりです。」
昭和58年に先生はご自分の意思を貫かれて、亡くなった。
竹川先生のこの感動的なお話にもかかわらず、折り紙は、もはや「だれにでも折れる」だけでは済まなくなっていると、私は思うのだ。
折り紙は、遊戯折り紙の流れをくんでおり、動物とか花とか家具とか具体的な物の形をまねることをおおかたの人が目的としている。抽象的な作品がまったくないわけではないが、もっとあっていいと思うし、もう少し幅の広いところをめざして、変幻自在に、今までの折り紙を越えたものがあっていいと思うのだ。遊びの領域のほかに、仕上がりに、息の長い工芸的価値のある作品が出てきてもいいのではないだろうか。そのためにも正方形にだけこだわっていては、きっと行きづまってしまう。ゲームはゲームで楽しいけれど、ゲームの「あがり」はただのゲームの終わりである。「できあがりの形」にもっと価値を求めるところに折り紙の行く末があるように、私は思うのだが、いかがでしょうか。
2008年 川村 晟 著