第三章

昭和(しょうわ)初期しょきわたし子供こどものころ、祖母そぼ鏡台かがみだいのひきだしにはいつも「こより」たばがはいっていた。かみをくくるためばかりでなく、ちょうどいま時代じだいゴムのような役割やくわりで、ちょっとしたものをたばねるのにもちいたので、男女だんじょわずそのころひとたちは、ひまがあると、ふる和紙わしかよちょうなどをほぐしてほそり、器用きようゆびさきでしごいて「こより」つくってはめておいたのだ。
 今時いまどきの、きれいな市販しはん金封きんぷうなど使つかわず、どこの家庭かていでも半紙はんし美濃紙みのがみ常備じょうびしており、作法さほうにしたがってりたたんでおさつつつみ、水引みずひきもながいままのを、器用きようむすんでいた。たとえば、おはぎに「はったいのこな」、赤飯せきはんの「ごましお」とかのトッピングをけるのに、用途ようとごとにいろいろなこなつつみが一般いっぱん使つかわれていた。
 かみ現代げんだいとはちょっとちがった、もっと生活せいかつに、ひと手先てさき密接みっせつかかわりかたをしていたのである。

はたらくことが趣味しゅみのような祖母そぼが、ときやすめて、ちりがみ上手じょうず丸曲まるまげをったねえさん人形にんぎょうつくってくれ、がみも、
いまよりごく自然体しぜんたいで、まるで呼吸こきゅうでもするように、祖母そぼ指先ゆびさきから「にそうぶね」「ちょうちん」「ふうせん」「さんぼう」「つのこばこ」「あやめ」「みこし」がりだされるのを、わたしのほうも、なにげなくながめていたものだ。今時いまどきのおかあさんがたがみほん片手かたてに、格闘かくとうしているのとはおもむきがちがっていた。

 といっても、わたしがみ興味きょうみをいだくようになったのは、そのときではありません。

 やがてわたし成人せいじんして結婚けっこんし、まれ、長男ちょうなん四、五歳しごさい長女ちょうじょふたみっつで、おやあそんでやらねばならない年頃としごろとなった。そのころ(昭和四十年代しょうわよんじゅうねんだい)すでにがみほんがちらほらはじめていて、以前いぜん新聞おりがみった吉沢章よしざわあきらというひと動物どうぶつがみ写真しゃしんて、いたく感心かんしんしたことがある。

吉澤章よしざわあきら

(1911年3月14日 – 2005年3月14日

栃木県出身とちぎけんしゅっしん作家がみさっか日本にほん創作そうさくがみ第一人者だいいちにんしゃであるとともに、がみ世界的せかいてき普及ふきゅう尽力じんりょくしたことでられる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

いち二冊にさつがみほんってきて、とにらめっこしながら子供こどもたちにってやったのがわたしの「がみ」とのいの始まりである。笠原邦彦かさはら くにひこの「おりがみすいぞくかん」「おりがみせかいのとり」「おりがみどうぶつえん」、そのほかの「おりがみ」の入門書にゅうもんしょを、つぎつぎにってきた。ほんしたがって子供こどもたちにってやっているうち、だんだん熱中ねっちゅうしてきて、ふと、いたずらごころから「なにかだいしてみい。おとうさんがそれをってやろ。」といだしたところ、長男ちょうなんが、

「ほんなら、おとうさん、腕時計うでどけいれる?」

予想よそうもしない注文ちゅうもんだった。しかしここはおや権威けんいにかけて、きさがるわけにいかなくなり、自信じしんもなくりかかるうち、意外いがい意外いがい!たいした時間じかんもかけずに、長針ちょうしん短針たんしん六時ろくじし、バンドき、金具かなぐそなわった腕時計うでどけいれあがったのである。その瞬間しゅんかん子供こどもたちは尊敬そんけいのまなざしでわたしたし、つまでさえ、「よう出来できてる!」とほめてくれた。私自身わたしじしんてん感謝かんしゃする気持きもちだった。

2003年 川村 晟 著