第九章

空中(くうちゅう)からいたたばこがてきたり、ひとつしかないはずのたまふたつになりみっつになったりする手品てじなるのがわたしきだ。子供こどものころから大人おとないまいたっても、たねがあるとかっていてさえ、たまらない魅力みりょくなのだ。そのくせうたぐりぶかくて、大がかりな、いわゆる大魔術だいまじゅつあたまからその仕掛しかけをかんじて、かえっておどろない。てのひらえんずるような手品てじながやはりわたしにはしょうっている。

 サラリーマンになると、忘年会ぼうねんかいげいのないわたしは、簡単かんたん手品てじなでおちゃにごそうと、デパートのおもちゃでネタをってくる。いえかえっていつも唖然あぜんとさせられるのは、まあ手品てじなのタネほどひと小馬鹿こばかにしているものはない。それを、いいっている。はだかのアイデアに値段ねだんがついたような代物しろものだった。あじもそっけもないのである。それでも、そのアイデアをやぶれなかった自分じぶんおろかなのだから、おこるわけにはいかない。手品てじなえんずるひとがいるから手品てじななので、デパートのショーケースにならべておいてあるだけでは、いくら奇麗きれいたまでもなんの価値かちもない。ってかえっても、たねながめているだけでは、がらくたとかわらない。


 がみも、もと一枚いちまい四角しかく紙切かみきれである。ほかの制作物せいさくぶつ手芸しゅげい民芸品みんげいひん芸術げいじゅつそのも、もちろん原材料げんざいりょうがあって、くわえられて最後さいご作品さくひんとなるわけだが、がみ以外いがいはすべて出来上できあがりが大事だいじで、途中とちゅうどんなまわみちをしようが、出来上できあがりがければすべてし。
 しかしがみ完成品かんせいひんほか工芸品こうげいひんくらべて幼稚ようちに見える。がみ一種いっしゅのマジックだが、わたしがいくらちかられて説明せつめいしても、
 「へえ?これがもと一枚いちまい四角しかくかみですか!」
りこみものりづけもしてないの?」
と、まだ半信半疑はんしんはんぎである。

自作じさくれいげて恐縮きょうしゅくだが、紙展がみてん教室きょうしつでよくおせしていたのが、ふたつのという作品さくひん出来できあがりは、鎖状くさりじょうにつながったふたつので、芸術性げいじゅつせいがどうのこうのというものではない。だれがてもふたつ、よく七夕たなばた幼稚園ようちえん園児えんじがこしらえる、かみテープをのりづけしたくさりとしか見えない。これが、りこみやのりづけなしに、真四角ましかく一枚いちまいかみから出来できているという証拠しょうこに、ふたつのをほどいてもと四角しかくにしてみせてはじめて

「あっ!」

おどろいてもらえる。そこまでかみくだいてはじめて、感心かんしんしてもらえるのだ。

 「おりがみ」はマジックにているが、マジックの即興的そっきょうてき魅力みりょくにはかなわない。「おりがみ」のおもしろさは、ではどこにあるのか・・・もとの平面へいめんからっていって、「できあがり」にいたるみちのりは、むしろ「将棋しょうぎ」に似ているかもしれない。

2007年 川村 晟 著